ESSAY

僕はこの嗅覚を殺したい

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人よりも匂いに敏感だと自負している。こと、好きな人、好きだった人の匂いとなると、忠実に覚えていられる。それも髪だけじゃなくて、首や腰、足と、部位ごとで覚えていることもある。

前世は犬だったのかもしれない。僕の嗅覚は五感の中でも特別センチメンタルで、エモーショナルで、記憶媒体として役立つ優れた器官だ。

この間は、転勤する知人を送別するために買った花の香りをきっかけに、田園都市線沿線に住んでいたときのことを思い出した。匂いはときに強引に、僕を過去へと連れ戻す。


その髪はちっとも美しくなかった。

指を通せばスルッと抜けて、歩けば踊るように光沢を保ったまま跳ねるロングヘアを「美しい」とするなら、彼女は正反対の髪質をしていた。

ワックスを付けたり髪が長くなったりすると重たくなって、「ボリュームが出なくなるから」とショートに抑えられた黒髪。少しごわごわしていて、手ぐしが途中で引っかかることもしょっちゅうだった髪質。

僕が彼女の「友人の友人」として出会い、「友人」に進化して「恋人」に昇格し、その後「元恋人」に格下げされるまで一度たりとも変わることがなかったその髪型は、彼女の意思の強さ、悪く言えば頑固さを表していた気がする。

そもそもどうやって付き合ったのか。「好きです」とか「大事にします」なんて言葉は一切交わさずにIKEAで買ったシングルベッドを揺らしてしまった僕らは、とても軽率で、いい加減で、安酒よりも自分たち自身に酔っていた。

酔いのせいかわからないけれど、会えばいつもクズみたいな時間を過ごすのが日課だった。部屋にいるうちのほとんどを裸に近い格好で抱き合い、あとは彼女の気分次第で突然、夜更けの散歩に出かけることがあるくらいだった。

「焼き芋屋のトラックって最近見かけないよね?」
「ああ、確かにね」
「探しにいこ」
「今から?」

おおよそこんな感じ。返事をした5分後には“焼き芋屋をめぐる冒険”に出かける。


真夜中の散歩はだいたい日が昇るギリギリまで続いて、だいたい目的のモノは見つからず、だいたい昨日を引き摺るナメクジのように自宅に戻って終わる。

その後は練り歩いた夜のぶんを取り戻すようにふたり体を交わらせて、「なんか今日の散歩、宇宙人になった気分だった。二人で違う星に来たみたいだった」とか僕がクサいことを言って、彼女がそれに引くほど大笑いしてから眠るような日々だった。

どんなときも、彼女と僕は同じ髪の匂いをしていた。
そして、彼女はいつも、僕と違う服の匂いをしていた。


「家のシャンプーじゃないと、帰ったときに怪しまれるから」

彼女が僕の家に自宅と同じシャンプーを置くようになったのは、彼女が僕の家を第2の居住地のように使うようになってすぐのことだ。

僕が初めて彼女と重なった日、彼女は、3年付き合っている彼氏と同棲中だった。そして僕が初めて彼女の「元恋人」となったあとも、その同棲生活はずっと続いていたようだった。

つまり、僕は彼女にとって、最初から最後まで、正式な恋人ではなかった。

彼女のインスタグラムのストーリーには3枚に1枚の確率で髭がよく似合う長身の男がアップ気味に写りこんでいて、僕はそこに彼女が入力したと思われる「かっこよすぎる」なんて書き込みにいちいち嫌気と吐き気を催し、実際たまに吐いていた。

そんな彼女が彼とのストーリーをインスタにアップしながら、終電間際の田園都市線に揺られて僕の家にきて、僕と二人で体を縮めてバスタブから40℃のお湯を溢れ返させているなんて、想像もしたくなかった。でも、それが現実であり、僕にとって唯一の、甘く憂鬱で充実した真実だった。


深く考えるまでもなく、きっと彼女が置いていったシャンプーは彼女の彼氏とも同じシャンプーである可能性が高かった。それをわかっていても、当時の僕は軽くイカれていて、「彼女を好きだ」とか「愛してる」という気持ちを通り過ぎて「彼女になりたい」とまで思っていたから、とうとうそのシャンプーを自分でも買ってしまい、僕の家のシャンプーは2本から再び1本に戻った。

「同じ匂いだね」と彼女は馬鹿みたいに喜んでいたけれど、僕は日によって彼女から彼女以外の匂いが強くすることを知っていたから、その笑顔が本当の馬鹿みたいに思えたし、彼女がメンズサイズのコーデュロイのジャケットを着てきたときはそれこそ犬のようにマーキングをしたいと思ったほどだった。正直、狂っていた。


今考えれば、ずっとひどい扱いだった。こっちから「会いたい」と言っても「そうだね」としか返してくれない彼女は、酔った帰り道だけ電話やLINEをくれて、今日が昨日に変わるころにあがりこみ、僕と体を重ねる。

翌朝早くには抜け殻のようになった衣服を再び纏うと、玄関でキスなんてするはずもなくさっさと家を出ていく。さっきあれほど書いた「真夜中の散歩」なんて、本当は3回もなかった。

それでも僕は、ちっとも美しくなんかなかった髪をドライヤーで乾かしている時間だけが、彼女を独占できている気がして好きだった。鏡越しに目が合うたび世界一優しい顔で微笑む彼女を見て、世界一幸せな男になれた気分を味わうのが大好きだった。


あのときは、どうかしていた。

でも、どうかするほど好きだった人がいたことは、忘れなくてもいいかなと思えるくらいには、大人になることもできた。

世間一般からしたら、ちっとも美しい髪じゃなかった。
でも僕にとってはそれが、世界で一番、美しい髪だった。


執筆:カツセマサヒコ
モデル:Kazuki Todo夏海
撮影:関口佳代


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