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僕が一番欲しかったもの

OTHER | 2019.10.21

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大阪が地元で、僕には兄がいます。
大阪で美容師をしているとき、彼がニューヨークでカメラマンとして活動していて、ある日、兄が大阪に帰って来たときのことです。見せてもらった洋雑誌に兄の名前が載っていたのを見て「大阪ではこんなことありえへん」と衝撃を受けました。日本から遠く離れた場所で販売されている、こんなかっこいい雑誌に自分の名前が載っている。僕もニューヨークで美容師やろうかな、と直感的に思った。

———この広い世界の中で、なぜニューヨークだったんですか?

兄がニューヨークにいたから…。ほんま単純すぎるんですけど…。
当時は大阪で美容師をしていて、スタイリストになっていました。ニューヨークに行くなら若い時がいいと思ったし、美容師としてのキャリアはまだまだだけど、行きたい気持ちが勝っていました。それ以上に、兄に対しての強いライバル心があったんです。

———ライバル心?

昔から兄は町の人気者で、大人になったら大阪を飛び出してニューヨークへ。向こうでカメラマンとして成功しているわけです。子供のときも、大人になっても兄が上に立っている感じ。僕も大人になって仕事だけは違う業界で、と思って美容師になりました。が、やっぱり兄の影響は大きくて。東京に行くかニューヨークに行くかで迷って、どうせなら英語も勉強できたらといいなと。行くきっかけは、そんなシンプルな発想からでした。行ってどうなるかもわからない、言葉もしゃべれるかわからない。それでもまず飛び込んでみないと、なにもわからなかった。

———24歳のとき、徳山さんはニューヨークに旅立ちました。なにもかもが無い状態で、仕事はどうやって見つけたのでしょうか?

最初は、『ウォーレン・トリコミ』というヘアサロンで1年ぐらい働かせてもらいました。もう、完全に兄のコネですね。撮影の現場に行かせてもらって、そこでサロンの人に出会い紹介してもらいました。コネで入れたとしても、自分がそんなにキャリアも無かったので、扱いもひどく、普通にど突かれたりもしていました。ビザも無かったので給料は出ず、タダで働いていました。とにかく毎日食らいつくように働いて、働いて。大阪ではスタイリストになっていたけど、見習いの見習いポジション。
 住まいは最初、田舎の方の語学学校に行っていたのでそこにあるドミトリーに。学校の友達の髪をそこで切りまくって1000ドル貯めたんです。それを軍資金にマンハッタンに移りました。貯金ゼロでニューヨークに来たもんだから、兄のところに住まわせてもらって空いている時間は出張美容をしてチップを稼ぐ。働いていたお店は忙しい店だったのに、全然仕事を振ってもらえなくて。シャンプーを1日に2人〜3人するだけだった。少ないチャンスでも一生懸命シャンプーして、チップで5ドルを貰う。1日15ドルのチップを稼いで5ドルぐらいでチャイニーズご飯を買い、10ドルを貯金するといった生活をしていました。大阪にいたときより何倍も貧乏でした。

———憧れのニューヨーク。お兄さんの援助があったとしても、やはり甘くない世界が待っていましたね。

やばかったですね。やはり中途半端で宙ぶらりんな立場だったので「もう、来んでいいよ」みたいなに言われたら、それで終わり。何度もそういったことがあって、その都度「もう一度チャレンジさせてください」と、謝って食いついていたんですが、最終的には捨てられて…。捨てられて、ロックフェラーセンターのお店に異動になりました。でもそのお店でパトリックという僕の恩師に出会えて、やっと人としての扱いを受けることができて人間らしい生活を送れるようになってきたんです。休みなんていつ取ったかわからないぐらい働いていたし、精神的にもギリギリなときに異動になった。異動することに最初はショックしかなかったけど、ここまで来たらすべてのお客さんに絶対に喜んでもらおう。自分の持っているすべてを使ってお客さんに「気持ちよかった」と言わせてやる。なにかが自分の中で吹っ切れて、誰よりも早く綺麗にするというのを徹底してやりました。今まで生活を食いつなぐためにやってきたところから、本当に美容にコミットするようにした。そんな毎日を過ごしていたら、オーナーの目に止まって1ヶ月もしないうちに撮影現場に連れて行ってもらえたんです。ニューヨークに来て初めて評価された気がしました。

———ちゃんと見ていてくれた人がいたんですね。

撮影現場に行けることがすごく嬉しかった。けど、すごいハードな現場で。朝5時に行ってセットアップをして、その後に違う撮影に行って、また帰って来て撮影をして…。5時に行って、終わるのが深夜2時という、ほぼ24時間の撮影が1週間続いたんです。しんどかったんですけど、他のアメリカ人スタッフは途中で疲れて、嫌になって帰っちゃうんですよ。これはチャンスだと思って、朝から晩まで食いついてました。体力勝負で自分のやる気をアピールできる絶好のチャンスだと。サロンでの仕事に戻ったらマネージャーが来て「パトリックが、お前に感動している。あんなヤツ見たことないって」、と言われたんです。そこから急に、周りの人からの見方が変わってオーナーのアシスタントにつくことになりました。そこから徐々にカットもするようになっていくんですが…。なかなかスタイリストになれない。「何でなん?」と、思いながら2年ぐらいやり続けて。ある日、気になってオーナーに尋ねたら「お前がスタイリストになったら、誰が俺のお得意さんのブローブラシすんねん!」って、言われたんです。そのとき僕がアシスタントでついていたオーナーは、30分に300ドル稼ぐスタイリストでした。それで、僕はブローブラシを30分行ったら300ドルを貰えたんですね。つまり、1時間で600ドル稼げる計算。僕がスタイリストになったら1時間で120ドルの料金なので、お店の利益を考えたら損なんですよ。でも、このままアシスタントをしているわけにはいかない。僕の代わりになる人を育てて引き継がないと、次のステップに行けない。そう思って、撮影で来るアシスタントの人に「将来どうなりたいの?」と、ヒアリングを始めました。僕がスタイリストとして仕事ができたのはオーナーが出社しない週末だけ。そのときにアシスタントを育てていました。ある日、アシスタントをしていたことがオーナーにバレて「勝手なことをするな!」とアシスタントが怒られるときがあって。僕はその姿を見て、給料を払わなくてもいいから、彼らには優しくしてほしいと伝えたんです。

———徳山さんが今まで辛い目にあっていたから、同じ目にあわせるのではなく。

僕自身が次に行くためにも引き継いでくれる人が必要だったし、彼らにとってもチャンスになるから。それを続けていたら、ある日マネージャーが来て「あの子(アシスタント)良い子だから、使わせてもらえないか?」と、言って来たんです。最初はタダで使いたかったようですが、給料もビザもしっかり出してあげることを約束してもらい、僕も解放してもらう条件で話しをしました。

———そうやってチャンスを広げる役目をしながら、自分も前進していく。日本の美容室ではチームワークや助け合いがないとうまく経営が回らないですよね。他人に視点を広げたことで変わったことは?

兄をはじめ、自分にチャンスを与えてくれた人たちに生かされてきたという実感があります。そうやって巡り巡って人に感謝されることを自分でもやっていかなきゃ、と思えました。ニューヨークでがんばりたいという子たちに、今まで僕がよくしてもらったことや学んだ技術を惜しみなく教えて。それを今まで1人に対してやっていたものを3人、5人と増やしていく。そうすると不思議なことにみんなが感謝してくれて、連鎖的に人が集まり、育っていく。一時期、「紹介されて話しを聞きに来ました」とひと月に15人くらい来たこともあったぐらい。もちろん全員が意識高く、継続できる子ばかりではありませんが、最終的に残った人たちの面倒を見て、お店の先輩たちの目に留まるように仕組んだりしました。パーティに連れて行って挨拶させたり、連絡先を交換しておいて、と。そこからいい循環ができていって活躍できる後輩をどんどん送り出していきました。
 最後に1人残ったんですが、さすがにこれ以上お店に入れるのは難しいと思ったのと、日本人やアジア人をターゲットにちょっと安いプランで自分の店をオープンしようと思ったんです。

———自分の店を出すために虎視眈々と準備をしていた。

そうですね。残った1人に「稼がせてやるから」と。自分がトレーニングした人が1年で忙しくなれば、今まで自分がしてきたことは間違ってなかったと思えるはず。結果そうなって、その後に入ってくる人、次に入ってくる人にも同じようなトレーニングをして、どんどん人が成長していく。これがビジネスだと思ったんです。経験してきたことを忘れたり、人にシェアしない人はたくさんいます。自分のお店を持ったからには、目の前にいる人をコツコツ育てて、その人が忙しくなれば僕も嬉しいしお店も大きくなる。チャンスを与えられる人になって、僕も成長していきたいと思ったんです。

———徳山さんは常に人をベースに考えていますよね。それを行う理由はなんですか?

お金を稼ぐというよりも、自分ができなかったことを相手に与えてみるとどうなるのか、と考えているんです。チャンスの先になにが生まれるのか。僕よりも若い人たちの可能性を感じることで、僕もライバル心が生まれてやる気になってくる。同年代や先輩たちをライバルと思ったことは一度もなかったけど、ニューヨークに挑戦しに来る若い人からはどんどん刺激をもらっているんです。

———自分の未来が未知だからこそ、ペイフォワードの姿勢でいくんですね。
日本とは異文化圏のアメリカですが、こちらのヘアカルチャーで面白いのはどんなところでしょうか?

ヘアデザインにおいて「可愛い・カジュアル」スタイルを積極的に作ることはあまりしません。僕はどちらかというと「キレイ」なスタイルを作ります。ビジネスの話になると、「可愛い」「カジュアル」なスタイルの人と、「キレイ」「ゴージャス」なスタイルの人では圧倒系に「キレイ」「ゴージャス」の人の方がお金を持っているんですよ。日本の大半の層は「可愛い」が基本になっていると思いますが、アメリカでは「セクシー」や「クール」といった要素がとても大切で。日本的感覚で美容師をすると、お客さんが求めているイメージとのギャップはかなりあると感じています。
 アメリカ人のヘアデザインは重ためのスタイルが多いですが、シンプルに言うとアメリカ人は「クール」「ゴージャス」であって、日本人は「フェミニン」「キュート」なんですね。アメリカにはたくさんの人種の方がいて、それぞれにバックボーンがある。髪質も多種多様。日本では「日本人の髪」がほぼですよね。黒髪ストレートがベースにある。その中で「フェミニン」と「キュート」の幅を試行錯誤している。みんながみんな、その狭い幅を追い求めすぎて、考えすぎて、何年たってもベテランが「あーでもないこうでもない」と言っているのは違和感を覚えます。もちろん、その狭い幅には微細な違いがグラデーションのようになっていると思います。わかりやすい違いが出せない分、試行錯誤を繰り返していくと思うのですが、アメリカにおいては髪色も形もデザインの幅がとても広いので、美容師の技術の幅も比例していきます。

———東京でもお店を展開されていますよね。

スタイリストになって技術の研鑽をするのもいいですが、もっと人に教えて若い人たちの感性と可能性を拡げることが重要だと思うんです。あとはシンプルにわかりやすく、あまりテクニカルなことを言ってしまうとわかってくれないですからね、お客さんもスタッフも。今までニューヨークで培ってきたビジネス感覚と、これからの東京という街でどこまで行けるか、僕の挑戦もまだ始まったばかりなんです。

徳山 隆偉(TAKA Tokuyama)
大阪で5年間美容師経験を経て2004年に渡米。NYでWarren Toricomi Salon, Patrick Melville Salon で7年間にわたりトップスタイリストを経験。その後、2011年にNYアッパーイーストサイドに念願の第1店舗 “TOKUYAMA SALON” 出店を経て、その2年後の2013年に第2店舗目の“TOKUYAMA SALON East Village”を出店。さらに、2016年第3店舗目“TOKUYAMA SALON TriBeCa”出店。2017年7月 Unopulirとパートナーシップを結びLeverage New Yorkリバレッジを東京広尾に出店。雑誌ではVogue、Harper's Bazaar、NYLONなどで掲載。H&M, BOONEY & BOURKE, CLINIQUEなどの広告イメージを担当。ファッションショーではNY Fashion Week, ビクトリアシークレットのショーを手掛け、メラニア・トランプ、パリス・ヒルトンをはじめ、ニッキー・ヒルトン、リンジー・ローハン、ジェシカ・ゾア、ケイト・アプトン、ハイディ・クルムなど有名セレブを担当。スポーツ選手の田中将大選手、著名アーティスト等も担当。

文・写真:ミネシンゴ

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